一
自宅のリビング。
合宿の準備をしていた大輝は久しぶりに妹から連絡を受けた。スマフォの画面。そこに表示された連絡アプリには、妹であることを示す「エリカ」の文字。メッセージが浮かびあがってくる。
『今度の合宿、ウチらの学校が相手になったみたいだから、ヨロッ♪』
それを見た瞬間、大輝は「はあ?」と疑問に思った。
今度の合宿という単語には心当たりがあった。自分が所属している武相男子学園の柔道部の夏季合宿だ。1週間泊まりこんで、実践的な練習と試合を繰り返す地獄の灼熱合宿。しかし、その相手は例年、武相学園中等部の連中がつとめていた。間違っても、エリカが通っている中高一貫の女子校が相手になることなんて有り得ない。大輝はすばやく返信した。
『なに言ってるんだおまえ。合宿の相手は武相の中等部だぞ?』
『あれ、聞いてないの? そいつら、この前の試合でウチら栄光女学院中等部がボコボコにしちゃって、再起不能になってるよ』
『はあ?』
さらに訳が分からなくなる。
武相学園は部活動が盛んで、その中でも柔道部は全国トップクラスの実力だ。
中高大と一貫の教育方針をもった硬派な学校。中等部と高等部は男子校になっていて、日夜熱い練習に明け暮れる。そんな武相の中等部が、いくら最近有名になってきた栄光女学院の柔道部といえども、まさか女に負けるなんて……大輝は信じられなかった。
『あれでしょ、夏季合宿って、だいぶきついんっしょ?』
エリカが話題を変えてくる。
呆然としていた大輝が返信した。
『そりゃそうだ。毎年、高等部が中等部を締めあげるためのシゴキ合宿だよ。俺が中等部の時も先輩に何度も締め落とされて地獄を見たし』
その時の記憶を思い出すと今でも背筋が凍る。
体育会系のシゴキは地獄だ。
何度も締め落とされて、上下関係というものを徹底的に叩き込まれる。先輩による後輩シゴキ。それを今年は大輝たちがやるのだ。新チームとなった最初の義務。小柄な体格ながらも持ち前のガッツをかられて主将に任命されていた大輝は、中等部の連中をシゴキ倒そうとそう決意していたのだが、
『本当にエリカたちの学校なのか、相手』
『そうだって言ってんじゃん。信じてないの?』
『信じるもなにも、武相の夏季合宿だぞ? 中等部の半分はこれで辞めていくんだ。相手がギブアップしても締め落としOK。一昨年なんて、それで意識戻らなくなるやつが出たくらいだぞ』
それでも部活中のことだからおとがめなしだ。
あの夏季合宿の空間は日常とは断絶された特殊な空間となる。そんな地獄のような場所で、年下の女子生徒たちが耐えられるとは思えなかった。
『やった~、ちょー楽しみなんだけど』
『なにが』
『ギブアップなしなんっしょ? はかどるわ~。年上の男子締め落とす機会とかないからさ、ちょ~楽しみなんだけど』
こいつは何を勘違いしてるんだろう。
確かに、栄光女学院の柔道部は、去年、団体戦で全国優勝をしていた。
エリカはその優勝メンバーの一員でもある。
しかし、それはあくまでも女子同士の対戦なのだ。
女が男に勝てるわけがない。
エリカは女子の世界で有名になったからといって、天狗になっているのかもしれない。武相の中等部がエリカたちに破れたというのも何かの間違いだろう。
「兄として、妹にはお灸をすえてやらないとな」
いい機会だ。
武相の中等部の連中にやろうとしていたことをエリカたちにやってやろう。上下関係を徹底的に叩き込む。2、3回締め落としたら泣きが入るだろう。そんなことを考えながら、大輝は勝負師の顔になってスマフォを操作した。
『あまり調子にのってるなよ。合宿できちんと現実ってやつを教えてやるよ』
『ぷぷっ、こわ~い』
『てめえ』
『まあ、期待してるよ。でも、エリカと会ったら、お兄はたぶんビックリすると思うよ。この1年半で、エリカだいぶ変わったからさ』
メッセージのやりとりはそれで終わった。
大輝は「ちっ」と舌打ちをしてスマフォを放り投げた。
初等部の頃から生意気なところがある妹だった。
同じ柔道教室に通っていた頃の妹の姿を脳裏に思い浮かべる。負けても負けても挑んできた生意気な妹。そんな相手を煩わしく思って、何度か締め落としてやったこともあった。
そんなエリカが中高一貫の栄光女学院に進学することになり、全寮制の寮に入るために家を出たのがつい1年半前のことだった。この1年半で、妹の生意気な性格はさらに増長してしまっているらしい。大輝はそんな妹をこらしめてやろうと、そう決意していた。
二
合宿所は山の上にある。
500段近い階段をのぼった先にある隔絶された空間。夏の灼熱が若干ではあるが薄まるほどの標高。携帯電話の電波さえ届かなくなる山の中に、その合宿所はあった。
「まじで中等部の奴ら負けたらしいぜ」
大輝の隣で立つ副主将が言った。
青島直樹。
大柄で少しやんちゃなところもあるが、頼れる男だった。大輝と青島は、ちょうど階段の頂上でもって、栄光女学院の面々を待ちかまえていた。
「栄光女学院にか?」
「おう。団体戦の試合して、ボコボコにされたって話しだぜ? 先鋒の女に、5人抜きされちまったとか」
「なにやってるんだあいつら。女なんかに負けて……気合い入れてやらないとな」
「そうだよな。でも、あいつら、なんで連絡の一つもよこさねえんだろうな。ライン送ってみても既読もつかねえよ」
どうなってるんだいったい。
大輝と青島は訳が分からず顔をゆがめる。
ミンミンとセミの大合唱だけが響く。
山の上といっても暑いものは暑い。
まだこねえのか、エリカたちは。
大輝たちがいらだちを覚え始めたころ、キャハハっという姦しい笑い声が聞こえてきた。楽しそうにしながら階段をのぼってくる少女たち。それを大輝と青島は仁王立ちでもって、階段の上で迎えた。
「遅いぞ! 集合時間も守れないのか……お、おまえらは……」
大輝の言葉が尻すぼみになる。
彼は圧倒されていた。
その対象。
少女たちが近づいてくるにつれて、その迫力に度肝を抜かれてしまったのだ。
(で、でかい!)
中等部の少女たちは例外なく身長が大きかった。
180センチある隣の青島よりも高い位置にある少女たちの顔。まだあどけなさの残る幼い顔立ちだったが、体は明らかに大人だった。
学校指定のジャージに身を包んだ彼女たちの胸は大きく隆起していた。ハーフパンツから伸びる太ももは鍛え上げられ、太く、たくましい。高等部の男子よりも発達した体。そんな少女たちが10人ほど、楽しそうに笑いながら歩いてくる。その先頭は、エリカだった。
「おっすー。お兄、元気してた?」
妹が兄を見下ろしながら言った。
兄はそんな妹のことを呆然と見上げるしかなかった。
はるか高みからエリカの声がした。
大輝から見ると、エリカはまるで大きな壁だった。ほかの女子たちよりも恵まれた体格をしている。初等部の頃と比べすべてが違っていた。身長が高いだけではなくて分厚い。目のやり場に困るほど胸がでかくて、下を向いたら向いたでムチムチの太ももが見えてくる。
(ちくしょう、なにをびびってるんだ俺は)
大輝は自分を奮い立たせてエリカを見上げた。
見上げた先にあったのは兄のことをニヤニヤしながら見下ろすエリカの姿だった。切れ長の猫みたいな瞳が笑っている。周囲の女子たちもくすくす笑いながら、小さな男子たちを見下ろしていた。
「びっくりしたでしょ、お兄」
エリカが言う。
「栄光女学院に入学して、特別コースでしっかり鍛えて、特製プロテイン飲んでたら、こんなに成長したんだよね~。それに比べて、お兄はぜんぜん身長伸びてないみたいだけど」
ぷぷっ。
笑う。
周囲の女子部員たちもそれに続いた。
大輝はキッとエリカを睨みつけてから言った。
「図体だけはでかくなりやがって。ますます生意気になったみたいだな、おまえ」
いくら身長が高くなったって、女が男に勝てるわけねえんだよ。
そんな考えを後生大事に抱えながら、なけなしの勇気をもってエリカを睨みつける。
「いいから準備しろ。今日は基礎体力の訓練だ。おまえらの意識が飛ぶまで、階段ダッシュを続けるからな」
「階段って、この階段?」
「そうだよ。これあがるだけでお前らはヒイヒイ言って来ただろう。言っておくが、1段目から頂上まで休みなしだからな」
すごんで言う大輝。
そんな彼の言葉に、エリカたちはキョトンとした表情を浮かべている。一瞬遅れて言葉の意味に気づいたのか、少女たちが爆笑した。
「わ~、すご~い。わたしたち、体力に自信ないから困っちゃ~う」
「のぼれないよこんな階段~。いや~ん」
「わたしたちヒイヒイ……ぷぷっ、ヒイヒイ言いながらのぼってきたんだもんね」
バカにしたように笑う少女たち。
そこで大輝は気づく。
この地獄のような階段をのぼって頂上に立つ少女たちが息一つ乱していないことに。それどころか、汗一つかいていない。そのことに遅れて気づき、嫌な予感がした。
その予感は的中することになる。
*
中等部と高等部がペアになって二人同時に階段ダッシュをする。
体力に劣った中等部の連中に格の違いを見せつけるための恒例行事だ。
階段の真下に集まった柔道部たちの面々―――その先頭に立つのは、大輝とエリカだった。
「よろっ♪」
大輝の隣のエリカが猫みたいに笑って言った。
その余裕しゃくしゃくの態度に、大輝はいらだつ。
その伸びきった鼻をへし折ってやる。男と女の差。それを見せつけてやろうと大輝は決意していた。
「それじゃあ、始めるぞ」
「いつでもどうぞ~」
「ちっ。舐めやがって。あとで泣いても許してやらねえからな」
二人がスタートラインにつく。
二番手に陣取る青島が、「ゴー!」と合図を出した。
大輝は勢いよく、最初から全力で駆け出した。しかし、
「え?」
それはまるで突風だった。
エリカが信じられない速さで、階段を駆けのぼっていく。
「な!?」
豪快なストローク。
長い脚を使って3段飛ばしで駆けのぼっていく。そのむき出しの太ももには筋肉がボゴオっと隆起していた。ムチムチした太ももの下に眠っていた凶悪な筋肉。その暴力的な肉体美を見た大輝は、思わず「う」とうめいてしまう。
「くそっ」
気を持ち直して全力で走る。
ハアハアと息を荒くしながら階段をのぼっていく。もはや心臓は破裂寸前まで脈打ち、汗が生命の危険を感じさせる勢いで流れている。苦しさに顔を歪めながら、いっしょうけんめいに走る。
それなのに、妹のエリカはまるで野生動物みたいな俊敏さで階段をのぼっていく。もはやその差は明らかだった。見えなくなる寸前までエリカの体が小さくなった。
「ちくしょう」
こんなはずじゃなかった。
こんなはずじゃなかったのに。
そんな焦りが大輝をむしばんでいった。
その足取りが弱々しいものになる。
大輝が頂上に到着したのはエリカがゴールしてから3分も後だった。
「遅すぎだよ、お兄♪」
エリカが勝ち誇って言った。
彼女は両手を腰にやって仁王立ちで大輝のことを見下ろしていた。
息一つ切らしていない妹と、ハアハアと肩で息をして、両手を膝にやってうなだれている兄。
基礎体力の違いが、一目瞭然で分かる光景だった。
「ほら、まだまだこれからだよ。次いこう、次」
エリカが大輝の片手をぐいっとつかむ。
そのまま、まだ息も整っていない大輝を引きずるようにして階段を降りていく。大輝はその歩くスピードの速さに「ひい」と悲鳴をもらしながら、小走りでついて行くしかない。その間にも、ほかの女子たちが信じられない速さで階段を駆けのぼっていき、対戦相手の男が絶望の表情を浮かべているのを目にした。
(な、なんなんだこいつら)
大輝は信じられない思いでいっぱいだった。
まだ中等部の、しかも女たち。
それなのに、自分たちよりも明らかに体力が上だった。そのことが大輝の劣等感を容赦なく刺激した。
「負けた方は勝った方の言うことをなんでも聞くっていう罰ゲームつきで勝負しようよ」
階段の真下に到着したエリカが言う。
「いいでしょ、お兄」
「あ、ああ。いいぜ」
断れるはずがなかった。
最初から負けを認めることが、兄としてどうしてもできなかったのだ。
(全力で……ぜったいに勝つぞ)
女の体力なんてたかが知れている。
俺はこいつよりも年上で、その分だけトレーニングを積んでいるのだ。瞬発力では確かにエリカのほうが上かもしれない。しかし、持久力は別だ。積み重ねたものが違うのだ。絶対に勝ってやる。そんな大輝の考えは、勝負が始まった瞬間に砕け散った。
「おさきっ♪」
余裕をかまして笑ってから、エリカが急加速した。
彼女の長い足が躍動したかと思うと、あっという間に大輝との距離を広げてしまう。エリカの太ももに筋肉の筋が現れて、とんでもない推進力を彼女に与える。やはりエリカは3段飛ばしで階段を駆けていった。股下の長さがないとできない芸当。長身の妹が、力強く階段をのぼっていく。
「く、くそ」
大輝は焦ってペースを乱してしまう。
エリカの真似をして3段飛ばしで進もうとするのだが、足の短い大輝にエリカの真似ができるはずがない。一度だけ成功した3段飛ばしは、かなしいことに後が続かない。足の長さが違いすぎるのだ。これでは逆に遅くなることに気づいた大輝は、惨めに1段飛ばしで必死に階段をのぼっていく。しかし、
「は、はやすぎる!」
エリカははるか遠くに行ってしまった。
もはや小さな点になってしまった妹。
あの速度で疲れることなく階段をあがっていくなんて信じられない。逆に自分はハアハアと息を荒くして速度が落ちてきてしまった。ペース配分を間違ったのだ。心臓が爆発しそうになっている。速度が落ちる。後ろから声が聞こえた。
「あはっ、情けな~い」
後からスタートした少女たちがペースを乱した大輝を追い抜いていく。
すれ違いざま、少女たちは侮蔑の嘲笑を大輝に与えていった。
「がんばれ~」とバカにしたように大輝の頭を撫でていく者。
「ざ~こ」とこれ見よがしにバカにする者。
「足短いと大変ですね」とわざと大輝の前で1段飛ばしの真似をする者。
彼女たちは全く息を切らすことなく、すごいスピードで階段をのぼっていった。格の違い。明らかに基礎体力が上であることが分かる少女たち。
(こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかったのに)
大輝の視界がゆがむ。
中等部の連中に上下関係を叩き込む。
生意気な妹にお灸をすえる。
そのはずだったのに、結果は逆だった。
これでは、逆に教えられてしまっている。
中等部の女子たちのほうが上だということ。
高等部の男子たちよりも、中等部の女子たちのほうが格上であるということを教えられてしまっていた。
「ぐ、ぐぞおおお」
歯を食いしばって走る。
心臓がはちきれそうになる。
それでもなんとか階段の頂上にたどり着くと、もはや立っているだけの力も残されていなかった。
「はあはあはあ」
大の字になって寝転がり犬のように息をする。
視界に広がるのは山の上に広がる大きな空。
その空を覆い隠すように現れた大きな巨体が、ニヤニヤと自分のことを見下ろし始めた。
「ザコすぎじゃね? お兄」
エリカが仁王立ちで兄のことを見下ろした。
汗一つかいていない妹がニヤニヤと笑っている。
「体力ないよね、ちゃんと練習してた?」
「く、うううう」
「エリカがゴールしてから、お兄がゴールするまでだいぶ時間あったよ? あまりに遅いから腕立て伏せして待ってた。ふふっ、なんでそんなにザコなの?」
笑う。
大輝がいたたまれなくなって両手で顔を隠す。キラリとエリカの瞳が光った。
「顔隠すな」
冷酷な声。
大輝がビクンと反応するのもつかの間、エリカがヤンキー座りとなって、大輝の両手をがっしりとつかんだ。そのまま、顔を隠していた兄の両手を持ち上げ、万歳の格好をさせてしまう。鑑賞会が始まる。
「うわっ、泣いちゃったの、お兄」
「う、ううう」
「目赤くして、涙目になってる。妹に負けるのがそんなに悔しかった?」
ニヤニヤ。
小動物で遊ぶ美しい巨大子猫。
「今からそんなんじゃ、先が思いやられるんだけど。まだまだこれからだからね、お兄」
とりあえず立ちなよ。
有無を言わせずエリカが大輝を持ち上げて強制的に立たせる。
まだ回復していない大輝の足がガクガクと震えていた。
「ぷぷっ、生まれたての子鹿みたい。なさけないね~」
ガクガク震える足。
大輝は屈辱のあまり下を向く。
見えてくるのはエリカの太ももだ。
ムチムチでいながら鍛えあげられた極太の太もも。それは全く震えることなく泰然として地面を踏みしめていた。同じトレーニングをしたはずなのに、妹はまったくダメージを負っておらず、兄の自分は足をガクガクさせながら立っているのがやっと。その現実に、大輝はますます、妹との格の違いを見せつけられる思いだった。
「あとで罰ゲームだからね」
エリカが笑って言う。
「さ、階段ダッシュは始まったばかりなんだから次いこうよ。次はさ、相手をおんぶして走ろうか。もちろん、タイムで負けたほうは罰ゲームね」
悪魔のような少女が笑っている。
大輝は「こんなはずじゃなかったのに」と内心でつぶやきながら、エリカに引きずられるようにして階段を降りていった。
つづく